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第5回 廃棄物を出さない生産システムを構築するには?


02 日本でのゼロエミッションの試み・1


自然を守るためにはじまったゼロエミッション 〜 屋久島
日本で、ゼロエミッションの考えをいち早く取り入れたのは、93年にユネスコの世界自然遺産に登録された屋久島でした。世界自然遺産に登録された以上、手つかずの自然を守っていかなくてはなりません。しかしその一方で、増大する観光客が排出するゴミの問題や、観光のための道路整備など、開発を進めるかどうかの選択をせまられていたのです。

屋久町と上屋久町の町議会は、93年7月、環境先進地域になることを目標とした“屋久島憲章”を議決しました。屋久島の自然という貴重な財産を保全することを第一義と考え、これをアピールしたのです。国連大学の提唱するゼロエミッション構想を土台にして、屋久島憲章を具体化する行動プランが、“屋久島ゼロエミッションモデルからメタボリズム(物質代謝)文明の提言”です。

具体的な目標として、1)島の資源の徹底利用 2)島からの化石燃料の追放 3)廃棄物ゼロ社会の実現 この3点をあげました。

島はクローズドシステムの実験には最適な場所ですが、廃棄物再利用のためのルートは限られ、エミッションをゼロにするのは非常にむずかしいようです。しかし、◎火力発電を自然エネルギーに切りかえたり、EV(電気自動車)の導入を進めるなどして、化石燃料の使用を削減する ◎コンポストを普及させて生ゴミを自家処理させる ◎資源ゴミの分別を徹底させて、収集廃棄物の40%を再資源化する などの試みが、もとより資源を大切にしてきた屋久島の自然産業に加えて、実行されることになったのです。

94年から、ゼロエミッションという言葉をかかげて、努力を積み重ねていることは注目に値します。そして今後も、その結果を見守っていきたい試みです。


工業団地での試みが県を動かす 〜 山梨県国母工業団地
甲府市にほど近い国母工業団地には、横川電気、松下電器産業などの電気機器、部品を製造する工場を中心に、23社が集まっています。この工業団地で、環境と調和するための活動の試みがはじまったのは、94年。バブルがはじけ、92年のリオ地球環境サミットを受け、従来型の企業行動に疑問が投げかけられはじめたころでした。

地球と地域の環境を保全するために企業がになう役割、この重要性を感じた国母工業団地工業会は、産業廃棄物の共同処理についての研究会を発足させ、約30回にもおよぶ勉強会をおこないました。

試みは、まず紙類のリサイクルからはじまりました。工業団地内で発生する紙類をコピー紙、新聞紙、雑誌、段ボールにわけて回収し、それをトイレットペーパーに再生して、団地企業に購入してもらうことになりました。次に着手したのが、廃プラスチックの回収です。廃プラスチックを固形燃料化し、セメント製造過程で燃料として活用する道を開拓しました。県の融資を受けて、固形燃料化のプラントを建設し、固形化した燃料を、秩父小野田のセメント工場に引き受けてもらうことになりました。

国母工業団地が“ゼロエミッション”に出会ったのは、96年、アメリカ、テネシー州で開催された第2回ゼロエミッション世界会議でした。自分たちが手さぐりで立ちあげたことを、より高度に実践できる概念である、ゼロエミッションに出会ったのでした。

国母工業団地での成功は、山梨県も動かしました。天野 健・山梨県知事の提唱する“環境首都・山梨”を実現させるために、県内の企業は“環境に関する企業連絡協議会”を93年に発足させていました。国母工業団地の成功が、この協議会を活性化し、500の企業が参加して“環境作戦 山梨500”を発足させ、ゴミの減量化などに取り組む方針を決めたのです。


■国母工業団地のリサイクルシステム
illust
資料:環境事業団
[出典]平成10年版環境白書



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