ttl




第八回「なにもいわない空」 近藤ようこ『水鏡奇譚』について


自宅マンションの隣に自動車教習所があった。

見晴らしの悪くなった私鉄沿線のマンション化した界隈では、わりと広い空間が目の前に広がる土地だった。

昔は富士見の名もついていた地域で、正月など空気のきれいな季節には、遠く山並みの陰のさらに向こうに雪を冠した富士もみえた。

“よく晴れたなぁ”と感嘆するような空や、しばらく見とれてしまうような面白い形の雲、オレンジに輝き刻々変化する夕焼けが楽しみだった。

歩いてわずか数十秒の幅で、いつもその日の空と風を感じる貴重な道であった。

そこに最近、マンション建築中の幕がはられてしまった。

しかたのないことだけれど、がっかりしてしまう。

花冷えと小雨の季節が終わると、空がきれいに見える。

秋の空ともちがって、すぅっと空のほうへ気持ちがのびやかになる、はなやさかの予感みたいな空だ。頬をたたく風も、温かくさわやかだ。

何だか、理由もなくうれしくなる。安上がりな幸せだなぁと思う。

近藤 ようこ『水鏡奇譚』に描かれた空は、いつの空だろう[図1]。

鳥と、雲の影で、流れる空を感じさせる。



img 近藤ようこ「空ゆく雲」
【引用図版・1】
『水鏡奇譚』下巻(第十二話)
角川書店 92年刊・所収 159頁


Next