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第46回
自然へのまなざし・その2
文/舘内 端


■植樹デーの帰りに

4月下旬、作家の立松 和平さんたちが推進する足尾の植樹デーに行ったことは、前回に記したとおり。急峻な崖にへばりつきながらの植樹であり、あらためて木を植え、増やすことの大変さを知った。

足尾へは日光市からも行けるし、東京方面からであれば、おそらく宇都宮を経由するこのルートが早くて、便利だ。もうひとつは、私の故郷の桐生市から国道122号線で向かうルートである。渡良瀬川沿いに走るこの道は、適度なカーブとゆるいアップダウンと、そして美しい自然が延々に続くので、とても楽しいドライブ・コースである。

渡良瀬川の景観をもっとゆっくり楽しみたいのであれば、足尾渓谷鉄道をおすすめする。桐生市から足尾(間藤)まで、車窓から美しい渓谷をながめつつ、のんびりとした旅を楽しめること請け合いである。

植樹からの帰り道は、渡良瀬川を左手に見ながら桐生市に向かう国道122号線を選んだ。じつは、この道の途中に高校時代からの友人の美術館があり、さらに行くと現在の彼の家があるからである。

美術館とは“富弘美術館”である。増築計画にともない、最近、そのデザインを国際コンペで募集したことで話題にもなった。友人とは、星野 富弘である。多くの詩画集を出しており、展覧会も、各地でというよりも世界中で開かれているので、彼のことはご存じの方も多いだろう。

■ハンカチの木

勝手知ったる彼の家だ。黙って入りこんで驚かしてやろうと思ったのだが、すぐに見つかってしまった。彼の家の広い庭には、たくさんの草花と木が植えられているのだが、その一角で家族と談笑中であった。

植樹してきたというと、“何の木を植えたんだ?”と聞く。“目薬の木だ”と答えたのだが、考えてみると植樹したほかの木の名前はさっぱりで、たまたま隣のご婦人が、“これは目薬の木ですね”と、そのまた隣のご婦人に植樹しながら話していたことを覚えていたにすぎなかった。うかつであった。“目薬をさすと、こぼれるからね。それでその木の隣には、ハンカチの木を植えるんだ”そう、彼はいう。

高校時代から冗談好きだったから、“ウソだろう。そんな木の名前、聞いたことがない”というと、“何いってんの。これがそうだ”と、庭の木のひとつを示したのだった。白いハンカチの形をした花が咲くのだという。“ヘエー”と驚いていると、そばで様子を見ていた彼のオフクロさんに笑われてしまった。

星野 富弘の実家は、農家であった。渡良瀬川沿いの山の中腹の畑とたんぼを父親と母親が耕し、彼は大学に進むまで、作業を手伝うのが当たり前の日課であった。自然はそこにあり、生活そのものであった。

彼の家の裏庭は、雄大な日光足尾山系につながっている。そこで、私は自然を“発見する”ことになる。

■2人の足尾線

高校時代、体操部にいた彼と、ラグビー部にいた私は、山登りが縁で知り合うことになる。彼が通学に使う足尾線に乗って、春も夏も秋も冬も、渡良瀬渓谷の山々をいっしょに登った。四季折々に見せる渡良瀬渓谷の表情の豊かさに、私は魅了された。

下山すると、彼はそのまま家に帰る。裏庭から家にもどるようなものだった。そして、翌日の月曜日、私が山登りの支度で乗った足尾線に乗って登校する。私は……。

私は、登山者として足尾線に乗り、登山者として、渡良瀬渓谷の山に登ったのだった。

そうして高校時代を過ごした私と星野 富弘は、それぞれの道に進むことになった。体育の教師として高崎市近郊の中学校に赴任した早々、彼はクラブ活動の指導中に脛骨を骨折し、それ以来、首から下の自由を失うことになった。私は、レースカーの設計の仕事に就いた。

その後、サーキットを住処(すみか)とし、自動車評論を生業としつつ、すいぶん遠回りして、私は再び自然を発見することになる。一方、彼はたくさんの人に支えられて蘇る。口に絵筆をくわえて、詩と絵を描きはじめたのだ。その絵は、すべて花と木である。

■ふたつの自然

植樹デーに参加した帰り道、立ち寄ってみると、彼はあいかわらず自然の中にいた。植樹をした私と、そもそも自然の中で育ち、それを相手にした家の手伝いをし、花の絵を描く彼と……。

もしかすると、私と彼の見つめる自然は、それぞれにちがったものかもしれない。ハンカチの木を見ながら、そんなことを思った。

私が、人とクルマと自然の共生というときの自然と、星野 富弘が感じ、思う自然とは、おそらくちがうものなのだろう。

彼は、きっと自分のからだ(の一部)のように自然を感じているかもしれない。そうであれば、自然が傷つけば、自分のからだが痛いと感じるのだ。自然が衰えれば、自分のからだが衰えたと感じるのである。

一方、私の自然に対する“まなざし”は、役に立つ資源であり、使える道具であり、加工するものであり、奪うものであり、そのために保守するものである。私のからだとは、別のモノである。

人の役に立つ自然や、自動車のマイナスを是正する自然ではない自然を、私は発見する必要がありそうだ。いや、自然とは、そもそも発見すべきものではないのかもしれない。

*富弘美術館のHPは → こちらです。




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