 
■7月15日ごろ 旅の香り
今回のアメリカ大陸横断の旅は、西海岸・太平側から出発した。大陸横断はNYとLA往復を2度経験していて、2度ともテントやモテル泊り、クルマでの旅だった。今度はちがう。自転車だから暑い、寒い、風の強弱、方向などを、からだ全体で感じながら、ゆっくり進む旅である。
アメリカの西海岸といっても、サンディエゴやLA、サンフランシスコ、シアトルでは、それぞれ微妙にちがっていて、それは、温度や湿度、海草の種類、魚貝類や動植物の変化が、それぞれの海岸沿いの街に独特の匂いをもたらすからでしょうか。
初夏を迎えたNYから、飛行機で一気に移動したシアトルの、まだ肌寒い海岸は、NYの匂いと同じではありませんでした。子供のころ、アメリカの若い軍人が、沖縄に来てはじめて“海には匂いがあることを知った”と言ったことが、今でも強く印象にのこっている。彼はたぶん、アメリカの中央部からはじめて海外へ出たのだろう。それに引きかえ、僕は沖縄で、名護湾のまっ白な美しい海岸で育ったので、“磯の香り”など意識することさえなかった。“へえー、海の匂いで驚く人もいるんだ”と、思った無邪気な少年時代の記憶は今でも忘れることがない。
シアトルの海岸から、山はすぐのところにあります。どうしてシーダーやジャスパーといった木々が垂直に、しかも密集してしげるのかと思ってしまうほど、まっ直ぐに伸びている。林から霧雨にただよい流れる香りに、思わず深い深い深呼吸をしてしまいます。葉を指でさわっていると、かなり長いあいだ、自然のなかで瞑想することができます。
まだ雪の残る小雨の坂道で自転車をこいでいると、白い息が汽車の煙りのように出る。バックミラーのない僕でも、音で、どんなクルマが後から来るかを判断するぐらいの“勘”はできている。雨の降る日に、狭い道路で、大型トレーラーに追いこされるのはいやなものです。水しぶきが唸りをたてて飛んでくる。自転車のハンドルをしっかり握らないと、こちらも飛ばされてしまう。しかし、木材を積んだトレーラーだと嬉しいのです。過ぎ去ったあとに、“木の香り”を残してくれるから。これは、平地では味わえない喜びです。
草にも、いろいろな匂いがあります。若草の香りも、枯れ草も、麦わらもいいものです。牧草がむれた香りもなかなかだし、刈りたての芝も好きです。同じ刈りたての草でも、道路わきに伸びた草を刈ると、またちがった匂いで、家畜ならずとも、青々しく、水々しく美味しそうな香りに感じます。
道路わきの花々は、長旅の目に、とても優しく、いつも感激しています。カメラを両手に近づくと、蜂や蝶たちがいそがしく動いていて、旅人の遊び心でカメラを向けるのが悪いような気がしました。夏の草花が満開です。炎天下のミネソタ州からアイオワにさしかかるころ、熱風にまぎれて、甘い香りが流れてきました。丘一面に咲く雑草のピンクの花からです。自転車を止め、しゃがみこんで休みました。草の名を“貴婦人草”と勝手に命名し、かれこれ1週間ほど、僕の旅におつきあいをしてくださったでしょうか。
2か月も、朝から夕方まで路面すれすれの生活をしていると、“土”の匂いをかぐことも教わります。砂ぼこりも、砂に含まれているミネラルのせいか、さまざまな匂いがあることに気づきます。でも実家が農家だったからか、肥えた土の匂いには、なんとも言えぬ愛着を感じます。“粘土を食べる”といいますが、わかりますね。きっと味も香りもちがうのでしょう。子供のころ粘土で髪を洗っていたことを思い出しましたが、捨てがたい匂いです。今日も道路工事中の道を3時間ほど走り、たっぷりと土の匂いを味わいました。
雨、風、空気の匂いは、当然のことでしょうが、地形によって大きくちがうし、都市と農村でも大きく変化することは百も承知しています。しかし、そのちがいを、頭でではなく、体験することも大切だと、道中、思った次第です。
|
|