title その22
英虞湾・真珠の海の出会い


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雌コウイカはカゴメノリの奥深くまで触腕をのばして卵を産みつけていた。


英虞湾は三重県の南東部、志摩半島にある最大の湾。このあたりは太古の時代から地殻変動が盛んで、いったん隆起した地盤が浸食を受け、山や谷をなし、再び沈降してできた湾であるため、海岸線が入り組んだリアス式になっている。その入り組んだ湾内は外洋の波の影響も受けにくく、水面にいかだを浮かべる真珠養殖などにとって理想的な条件が整っている。

1905年に御木本幸吉氏によって世界初の養殖真円真珠が作られたのもこの湾内のこと。また、穏やかな湾内は箱庭的な入り江や小島が点在し、特に夕景の美しさは有名で、伊勢志摩国立公園の中心地的な存在でもある。

10数年前のことであるが、テレビ番組の取材でこの英虞湾に潜る機会があった。通常、英虞湾は高価な真珠が養殖されているため、スクーバダイビングなどもってのほか、銀行の金庫に“入れてくれ”と頼むようなもの。我々ダイバーにとって、最も遠い海の一つである。貴重なチャンスとばかりに小船から飛びこみ、真珠養殖棚に近づいていくと、母貝の入った篭が水面からたくさん吊り下げられ、揺れていた。内湾の緑色の海水を通して差しこんでくる陽の光を浴び、真珠は人間のせせこましい時間を超越した雰囲気の中で育っていた。

そんな戒厳令のような海に再び潜るチャンスがやってきたのは去年のこと。英虞湾の海の生き物図鑑を作る仕事であった。湾内の座賀島にある三重大学の臨海実験所にお世話になって潜らせてもらったのだ。なにしろ身元のハッキリしない者は皆、銀行の金庫を狙う不審者と思われる湾内である。実験所の桟橋から海に潜ると、所々に海藻が生い茂る砂泥の海底があった。ハゼなどの小魚を撮影しながら海底を探っていくと、突然金色の目が海藻の間から現れた。

体長14〜5cmのコウイカの仲間である。近づくと、体色を変えて警戒するだけで、遠くに逃げようとはしない。観察を続けていると、意を決した様子でコウイカの方からこちらに近づいてきた。コウイカは、私の目の前の海底にあるカゴメノリという海藻に卵を産みつけはじめたのだ。卵を一つ産み終えると、ゆっくり砂泥の海底にもどり、触腕で砂を掘るような行動をした後、再びカゴメノリに産卵しに来るという行動を繰り返していた。

産みつけられた卵は大きさが1.5cmほどで、砂が塗(まぶ)され、うまくカモフラージュされていた。先ほど母親のコウイカが触腕を使って砂を掘るような動作をしていたのは、卵に砂を塗せていたようだ。こうしておけば、卵は海藻についた砂の汚れのように見えるし、万一見つかっても砂の甲羅に守られて食べられ難いのであろう。

コウイカの卵は東京湾でも見かけたことがあるが、形も産みつけ方もちがう。これは生態の地域差なのか、それともこのコウイカはちがう種類なのか?……などと想い悩みながら観察を続けた。コウイカは2時間近くかけて卵を10数個産みつけた。

初めて出会った巨大生物“私”に怯むことなく、卵を産み続けた雌コウイカの勇気と思い切りの良さは、“本能”という言葉で説明してしまうだけでは惜しい気がした。それは、我々人類が失いかけている“野生”の清々しさの片鱗なのではないだろうか。人は真珠の滑らかな輝きの向こうに大自然の清々しさを感じ、無粋な私は雌コウイカの野生の勇気に感動した。日本を取り巻く海岸線の片隅にも、耳を澄まし、目を凝らせば素晴らしい物語が見つかるのだと勇気づけられた。


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砂泥の海底を触腕でかき回すような行動は、卵に砂を塗すためにしているようだ。こんな行動ははじめて見た。
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砂を塗(まぶ)された卵。



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