title その20
流氷の海・羅臼の生き物たち


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崖の中腹に産み付けられた卵を守る雄のイボダンゴ。卵の中では稚魚たちが孵化の日を待ちながら一心に外を見つめている。
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氷点下の水温の中、優雅に鰭を動かしながら流れに乗って海中を運ばれていくクリオーネ。その姿は“流氷の天使”という呼び名がピッタリだ。


やっと春めいてきた今日この頃、3月も半ばといえば、そろそろ北海道・オホーツク海沿岸に着氷していた流氷が岸を離れる頃である。流氷に覆われた海底はおもしろい。初めて流氷の海に潜ったのは今から17〜18年ほど前のこと。その潜水環境の厳しさは、予測をはるかに越えるつらいものであった。もっとも、その厳しさゆえに人々の目に触れるチャンスの少ない海底は、新発見の宝庫でもあった。

当時、潜水を終え、吹雪の吹き付ける波打ち際に這いつくばり、顔からツララをつり下げながら仲間とお互いの無様な姿を笑い合ったのを覚えている。“何でこんな苦労をしてまで流氷の海に潜るのだろうか”という問いかけには、明確な答えが見えていた。それは、凍える海底に棲む生物たちの強烈な個性と魅力を一目見たいからである。

知床半島の南東部にある町、羅臼(らうす)の周辺の海は、そんな北の海の魅力を秘めた生き物たちに出合える絶好の場所である。この海で出合った魅力いっぱいの生物は数え切れないほどあるが、そのいくつかを紹介しよう。

まずはイボダンゴ、大きさはゴルフボールほどの魚である。腹鰭が吸盤のようになっており、どこにでも吸い付くことができる。接岸した流氷の割れ目から薄暗い海底に潜り込んでいくと、水深8メートルほどの切り立った崖の中腹に、イボダンゴの雄が卵を守っていた。

イボダンゴの産卵行動らしきものを、以前に一度だけ見かけたことがある。水深30メートル近くの岩場の海底で、雌雄2匹が細かく動きながら寄り添うようにしていたのだ。撮影用のライトを当てると、勢いをそがれたのか、2匹は離れてしまった。せっかくのラブラブムードをこわす無粋な役を演じてしまったが、この魚、雌が雄と寄り添って卵を海底に産み付け、卵が孵化するまで雄が見張りをして守るという生態をもっているのだ。崖の中腹に産み付けられた卵を守っていた雄のイボダンゴ君もカメラを持って近づいてきた私にひるむことなく、鋭い目線を四方に放ちながら卵を守り通していた。しかしこの雄イボダンゴ、撮影してから数日後に大きな流氷の固まりが接岸し、守っていた卵塊は氷に削り取られてしまったそうだ。流氷の海底は我々人間に対してだけでなく、そこに棲む生物すべてにとって厳しい環境なのだと教えられた。

さて、もう一つの生物は今や誰でもが知っている人気者、“クリオーネ”である。“ハダカカメガイ”という和名をもつ、この数センチの小さな生き物は貝の仲間である。“流氷の天使”と呼ばれるように、流氷とともに北海道沿岸に運ばれてくるらしく、流氷が来る前の海では見かけられない。しかし、流氷が岸から離れ沖に去っていくこれからの季節には沿岸に残り、海中で頻繁に見かけられる。4月に入ると雄雌2匹で寄り添い、ゼリー状の風船のような卵塊を海中に産み出すのだ。10年ほど前、カナダの北極圏バッフィン島にイッカクという鯨を撮影に行ったとき、氷結した海に潜るとこのクリオーネが沢山いて、撮影の邪魔になるほどであった。世界の極寒の海に分布するクリオーネの優雅な姿を見ていると、針に刺されるような氷点下の海の冷たさも、しばし他人事のように感じるのは私だけだろうか。

流氷の海を満喫したあと、夕闇の中、漁船の作業灯で明るく照らし出された羅臼港に寄ってみた。知床連山から吹き付けてくる針のように痛く、冷たい吹雪の中、スケソウダラ漁の漁師たちが魚を網からはずす作業に熱中していた。港の沖合、流氷の切れ目を縫って数百メートルの海底に落とした底刺し網にはギッシリと獲物が掛かっていた。人は氷の海に網という腕(かいな)を沈め、魚たちをつかみ獲る。その一方でイボダンゴの産み付けた卵の中にある新しい命の運命に一喜一憂し、photoクリオーネを“天使”と呼ぶほど愛することもできる。人が海の中に潜ること、そして海の中の世界を知ることはとても大切なことだと思った。
スケソウダラはカマボコなどの
練り製品の重要な原材料として使われる。



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