title その15
南紀串本、クロマグロの養殖


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憧れのクロマグロは、100キロを超す巨体を微動だにさせず、
ミサイルのように私の目の前を泳ぎ去っていった。


“ヘイ、大トロお待ち!” 目の前に置かれたそれを醤油につけ、口に放り込む。とろけるようなマグロの脂身と酢飯が口の中で混じり合い、醤油と絡み合って、鼻から溜息が漏れる。“ウー、たまらん! 寿司が食いたい! 大トロを腹一杯食べたい!!”

私は今、トンガ王国の小島にいる。クジラを撮影しに来ているのだ。日本を離れてすでに1か月半以上も経つのだ。すでにあらゆる日本食に対して冷静さを失いつつある。この状況下で大好物のマグロについてきちんとした文章を書く自信はない。しかし、この世に生を得て半世紀、自制心をもって文章を進めていこう。

今回のテーマはマグロ、それもマグロ一族の中で一番尊敬を集めているクロマグロである。クロマグロはホンマグロとも呼ばれる、英名はBLUEFIN TUNA、主に北半球の温帯、亜熱帯に生息している魚だ。ところで、日本人はマグロが大好きだ。日本国内のマグロ漁獲高は年間約30万トン、世界中でつかまえられるマグロの約3分の1を獲っているそうだ。

夜明け前、築地魚市場内の隅田川沿い岸壁に行くと冷凍マグロが所狭しと並べられ、その冷気が霧となって市場の床を覆っている。毎日数え切れないほどの沢山のマグロが運び込まれているのだ。広大な市場の中でもかなりの面積を占めているマグロ部門を見ていると、この魚が市場でいかに重要な商品であるかが判ってくる。そんな重要な魚を養殖しようと人々が考えるのはごく自然な事だろう。

ところがこの魚、一筋縄で養殖できるような魚ではないのだ。外洋に棲み、広大な海を一年中泳ぎ続けているこの魚、最も野生の強い魚と呼んでも良いだろう。沿岸の網囲いの中でこのような外洋の魚を育てるのは容易な事ではなかったようである。

20数年前にカナダのノバスコシア、セントマーガレット湾で行われていたクロマグロの蓄養網に潜ったことがある。彼らは500kg近い超大型のクロマグロであった。大西洋岸を回遊してくる大型のクロマグロを捕らえ、大きな網囲いの中で餌を与えながら蓄養し、日本のマグロ市場が高値をつけると同時に棺桶のような容器に氷詰めにして日本に空輸していた。透明度の悪い湾内の網の中でいきなり目の前に巨大なクロマグロが現れた時は、予想していたとは言え、いささかたじろいだのを憶えている。

日本では近畿大学によりクロマグロの養殖が紀伊半島の先端、串本の海で試みられて久しい。その近畿大学水産研究所のクロマグロ養殖イケスに潜らせてもらうことにした。串本町の沖合の大島にあるイケスに船を横付けにしてもらった。カメラの用意をしていると、早くも水面にクロマグロの鰭が走り回っている。平均体重150kgを超すクロマグロが30匹ほど入っているという話だ。

ノバスコシアのクロマグロに比べれば串本のは、まだまだ子供といえる。網づたいにイケスの中に潜り込むと水の透明度は想像以上に良く、14〜15mの視界があった。イケスの底に身を潜めて彼らを驚かせないようにしていると、次から次へと不敵な面構えのクロマグロが近づいてきた。底知れぬ力を秘め、なおかつ鰭をほとんど動かさず、ミサイルのように目前を通り過ぎるその姿には飼い馴らされた家畜の卑屈さはなく、野生が強く匂っていた。photo

何という力強い美しさだろう。人の飽くなき欲望は海の野生の精であるマグロすらも飼い馴らそうとしている。これからはマグロを口にする度、彼らの美しさを思い出そうと心に誓った。
カナダ、ノバスコシア、セントマーガレット湾にて。



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